70年代コラム

June 28, 2008

あの人たちの今・・・

昨日の金曜プレステージ(フジTV)は、久々に思わず食い入って観てしまった。
構成は、いわば日テレの「いつ見ても波瀾万丈」と、テレビ東京がよくやる「時代を飾ったあの歌、あの歌手(自作タイトルです)」の合体版。

現在は自腹を切って全国の老人ホームを慰問して回っているという、「イルカに乗った少年」の城みちる。一時期はダイエットに成功した「あなた」小阪明子も、リバウンドレコードなる洒落にならない会社を作って、元通りの肥満ぶりをTVの前に見せてくれた。

50代の自分世代が幼少の頃に、橋幸夫、舟木和夫、西郷輝彦の御三家と並んで人気があったアイドル歌手のひとり、「美しい十代」の三田明も、波瀾万丈の人生を歩んでいまだ健在だった。

姉、岩崎宏美の存在の大きさに歌手としての自信を失い、9年間歌手生活を休業し、女優業に専念していたという「タッチ」の岩崎良美、長い闘病生活の末、昨年最愛の夫を亡くした「なごり雪」のイルカ。19年前に書き記した夫の「遺書」を披露するなど、ヒット曲に恵まれ、華やかな芸能生活を送ってきた人々の「裏人生」を本人の告白(VTR)で綴りながら、最後に本人がスタジオに登場して往年のヒット曲を歌う。

その他、金井克子(本当は歌手になりたくなかった)、安西マリア(うつ病生活に苦しみ自殺未遂まで図った4年間を告白)、中村晃子(いじめ時代の小学生時代&母の愛)など、70年代の歌謡界を彩った歌手達の「壮絶人生」。まさにゴシップ好きの奥様方が「女性自身」に食いつくのがよく理解できた。

決して人の不幸を喜ぶ訳ではないが、かつて輝いていたアイドルやスターの知られざる苦悩や不幸話は、あまりにもギャップがあって、思わず観てしまうのであった。

自分の仕事も、人の転機(就・転職)を取材し記事にする事。決して順風満帆ではない、山あり、谷ありの人生を聞き出す仕事なので、すご~く参考になりました。(決してオチを付けようと思った訳ではありませんので悪しからずcoldsweats01

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June 18, 2005

我が青春の70年代を振り返る~その5(音楽遍歴2)

音楽を「聴く側」から「奏者」へと向かわせたのは高校時代。
フォークソングとの出会い、がきっかけだった--。
地方(特に九州)ではライブハウス出身のミュージシャンが
次々とメジャーデビュー。福島の片田舎に住む高校生も、
いつしか「夢」を東京に描くようになる。

と、話はそれたが、
この時期、深夜放送にハマっていたことは以前、コラムにも
書いたが、同時にハマったのが「コッキーポップ」という
ラジオ音楽番組(後にTVでも始まる)。
知る人ぞ知る、YAMAHAが主催した「ポピュラーソングコンテスト」
と連動した番組で、「ポプコン」出身の新人アーティストの曲が
紹介された。

DJを務めたのが大石吾朗さん。
「黙っていれば友達になれない。叫ばなければ消え去ってしまう。
私たちが生まれてきた時から育ててきた、何かを伝えあうために
ちぎれかけた世界の、心と心を繋ぎ合うために。
私たちの歌が、いま、ここにある」といったナレーションで始まる
この番組。コッキーがはじまると、何かしていた手を休め、
母親が用意してくれた夜食でコーヒーブレイク。
受験生時代の月曜~金曜の深夜0時30分から30分間は
自分にとってかけがえのない「くつろぎ」の時間だった。

ポプコンで有名になった東北出身のミュージシャンもいる。
吉川(きっかわ)団十郎。NSP。
なかでも仙台出身の吉川さんは、「キューピーちゃん」など、
コミカルな歌詞とメロディーの中に独特の「感傷」も織り交ぜ、
さらにそれ以上に笑わせるのがライブにおけるMC。
仙台弁丸出しで、ちょっとひねくれ者。
パワフルな九州人とは対極の、東北独特の人間性が歌にも
表れていたような気がする。

そんな「コッキーポップ」の懐かしいCDを見つけた。
ニッポン放送がコッキー誕生30周年を記念して発売した
10枚のCD-BOXだ。(発売元:ポニーキャ二オン)
新たに録りおろした大石吾朗さんのポエム調のナレーションも
聴けるらしい。
価格は2万8900円。今、これを買おうかどうか、
真剣に迷っている・・・


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我が青春の70年代を振り返る~その4(音楽遍歴)

歌は世につれ、世は歌につれ・・・
まさに今、「あの時」聴いていた歌を思い返せば、
「その時」の自分がフィードバックされてくる。

70年代前半、中学~高校時代。
自分の音楽の嗜好が大きく変わった時でもあった。
それまでは歌謡曲。いわゆる「流行歌」がマイブーム。
その中心にいたのは、南沙織、天地真理、小柳ルミ子の3人娘。
そして70年代。
スター誕生で生まれた中3トリオ。
いうまでもなく、山口百恵、桜田淳子、森昌子。
なかでも1973年5月「としごろ」でデビューした山口百恵。
同年9月のセカンドシングル「青い果実」は、
「あ~な~たに~女の子のイチバン~大切な~」という
鮮烈な歌詞が「新しい時代」を感じさせた。

そしてこの時期に、クロスして目覚めたのがフォークソング。
フォークギターを初めて手にした時の嬉しさは、今も忘れない。
確か、最初に覚えたのは泉谷しげるの「春夏秋冬」。
「季節のな~い街に生まれ~」と、なかなかおさえられない
Fコード、響かぬ弦音で悪友と歌っていたのを思い出す。

当時は拓郎派と陽水派があって、自分がリスペクトした
アーティストは井上陽水。
ライブ盤LP「帰り道」は今でも、お涙ものの1枚になっている。

(長くなりそうなので次回に続く)


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June 01, 2005

我が青春の70年代を振り返る~その3

自分が物心ついた頃から育った土地は福島だが、
出生したのは山形県鶴岡市という城下町。
祖母は当時(50年近く前)にしては珍しい
パーマ屋(今でいうヘアサロンであり、山形では
カリスマ美容師だったらしい)さんを営んでいた。

そんなお店によく来るマダムがいた。
横綱・大鵬のライバル、柏戸関の母親だ。
小結昇進の際には、乳飲み子である私を祖母が
柏戸の実家に連れていき、抱っこをしてもらった写真がある。

そんな風にして、物心がつく以前から相撲には縁があった。

70年代に活躍した関取で忘れられない力士、それは貴ノ花。
そう、若貴の師匠であり、父親である。
小兵ながら、驚異的な粘り腰で土俵際で巨漢力士をうっちゃり
で破ったり、昭和の大横綱・大鵬が引退を決めた最後の取組も
貴ノ花だった(貴ノ花が寄り切って勝利)。

そして75年春場所の千秋楽、巨漢横綱・北の湖との優勝決定戦
で寄り切りで破って初優勝した時は、日本全国が興奮した。
輪島とは「貴輪(きりん)時代」を作り、大関在位50場所。
うち16場所が9勝6敗と、大関としては不本意な成績から
「クンロク大関」「万年大関」と揶揄されたものだが、
それでも大きな力士に果敢に向かっていく姿は、相撲ファン
のみならず、日本人(特にサラリーマン)の胸を打った。

そんな昭和の名大関・貴ノ花→2代目二子山親方
(本名・花田満)が逝った。享年55歳。
あまりにも早すぎる人生だった。
ご冥福をお祈りしたい。


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我が青春の70年代を振り返る~その2

シティボーイといえばアイビールックでビシッと決めて、
南青山あたりのこじゃれた飲み屋でコンパ・・・
というのが当時自分が描いていたイメージだ。
大学でいえば青山学院、慶応ボーイあたり。
そんなシティボーイとは縁がない大学に行ったものだから、
VANのファッションを身に付けたことは一度もない。

それでも「ポパイ」「ホットドッグプレス」「平凡パンチ」
「プレイボーイ」といった雑誌にはよく特集が組まれていたことから
VANは当時の時代(ファッション)を反映する鑑だった。
(メンズクラブはあまりにも有名だが自分は読まなかった)

そのVANの生みの親である石津謙介氏が亡くなった。
70年の初頭までは、若者がファッションにお金をかけること
自体が新しいとされた時代。
VANブームがきっかけとなり、若者が消費文化の主役になった。
スエットシャツをトレーナーと呼んだのも、TPO(時間、場所、機会)
なる造語を生み出したのもVAN。

「ボートハウス」「キャプテンサンタ」などのブランドで知られるジョイ
マークデザイン社の社長や「ユニクロ」の創業者・柳井会長もVANの
影響を多大に受けたそうだ。

ファッションを軸に「男の生き方」までを提案した石津さん。
ダンディーなジェントルマンがまた1人、世を去った。
ご冥福をお祈りしたい。

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我が青春の70年代を振り返る~その1

高度経済成長がピークを迎えた70年代。
その始まりは忘れもしない1970年3月14日に開幕した
大阪万博。(なにせ自分の誕生日の前日なのだから)

当時、自分は福島のローカル中学生。
某国営放送に勤務していた父親が万博中継のプロジェクトに
参加することになり、おそらく年明け早々からその準備に
かかっていたと思う。

開幕前日、私は担任の教師に突然呼び出され、
「いまお母さんから電話があり、明日から3~4日、
家族で万博に行くので学校を休ませてほしいと言ってきた。
ぜひ行ってきなさい」と告げられた。

正直、寝耳に水の事で、混乱していた。
太平洋戦争時代は海軍に所属し、海上で生死をさまよった
こともあるというその教師は、とても厳格な人だったと記憶
している。
その教師が普段になく優しい笑顔で「行ってきなさい」と
言ってくれた。
正直、万博なんぞに興味を持っていなかった自分は、
勝手に決めた親のスケジュールに、本当は憤りを感じて
いたのだが、その教師の言葉がなぜか嬉しかった・・・

あの大阪万博を生身で体験していなければ、きっと愛知万博
だって「ふ~ん」という程度にしか感じなかったと思う。

岡本太郎がデザインしたシンボル「太陽の塔」、
アメリカ館で見たアポロ11号が持ち帰った「月の石」、
ソビエト館のレーニン像・・・
「人類の調和と進歩」をスローガンに開催された
史上最大規模の国際博覧会「大阪万博」。
今思えば、まさしく高度経済成長のシンボルだった。

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