新米編集者時代の話

January 29, 2005

新米編集者時代その7(最終回)

毎月「産みの苦しみ」を味わいつつも、
校了を終えて数日は編集部内もおだやかで
普段は鬼の形相の編集長もこちらのジョークに
相槌を打ってくれたりした。

しかし、自分は1年半で音楽雑誌の編集者を
辞める決意をした。
いま考えても直接の原因ははっきりしないのだが、
嫌ではなかった苦しみが、突然「苦痛」に変わったのだ。

ふと重なるのが、当時解散したキャンディーズが発した
解散会見でのあの有名なコメント。
「フツーの・・・に戻りたい」
もしかしたら、自分にもそれに近いストレスが蓄積していた
のかもしれない。

「好きを仕事にする」--。
それを叶えた人を見て、「うらやましい」という人もいる。
しかし、当事者にとっては「好き」であればこそ、その
好きに対して責任を持たなければならない。プロとして。

しかし、自分には限界を感じた。
好みではない音楽に対しても時には良い評価をしなければ
ならない。また時には、アーティスト自身がスポンサーである
楽器メーカーにおべんちゃらを使い、楽器名をアピールする。
ライブに行っても、目的は取材レポート。
楽しんで音楽を聴くゆとり、心のキャパシティが
なくなっていたようだ。

常に自分にのしかかってくるプレッシャーが、
産みの苦しみを超えた苦痛にいつしか転化してしまった。

挫折にも近い、そんな自分の新米編集者時代は
いま想い返しても、ちょっとほろ苦い思い出だ。

(本項終わり)


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January 28, 2005

新米編集者時代その6

いまでこそ、仕事がら「働く人のやりがい」を取材し
原稿を書いているが、当時の自分にとって、
やりがいって何だったのだろう---。

よく「物づくりの楽しさ」とか「自分の仕事がカタチになる
喜び」なんて表現するが、果たしてそんな喜びを感じ
ながら仕事をしていただろうか?
否、自分には苦しみでしかなかったような気がする。
ただ、それは仕事が辛いとか嫌という苦しさではなく、
いうなれば「産みの苦しみ」。

要は自分の思考からアウトプットされるアイディアや
ボキャブラリーが未熟ゆえに、見出しひとつとっても
NGの連続。これ以上考えられない・・・みたいな状態
が続くことが苦しかった、のである。

だから、「あなたにとってやりがいはなんですか?」と
取材で聞いている自分には、実は相手の気持ちが
よく分かるのだ。
「特にやりがいを意識して仕事なんてしてないよ」
ってね。
でも人は言う。「やりがいのある仕事がしたい!」
う~ん、よく分からん。

(次回に続く)

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新米編集者時代その5

音楽雑誌編集者の特権は新譜レコード(もちろん
当時CDなどなかった)がいち早く聴けること。
編集部の一角にはライブラリー用の巨大なレコード
収納棚があり、膨大なレコード(ほとんどが見本盤)
を整理するのも新米編集者の仕事だった。

当時はレコード会社別に分けていたのだが、どうも
検索性が悪い。そこで、提案したのがアーティスト別。
五十音順に並べ替えてはどうか、という意見が通り、
「はい頑張って~」とばかりに、予想通り自分1人で
作業することになった。

しかし、いざ作業するにしてもオンタイムではやりにくい。
そこで夜な夜な10時~12時までの2時間、毎日作業
することに決め、2週間(正味10日)かかって終えた。

完成後、「ごほうびとしてダブりのレコード、お前にやる
から家に持って帰っていいよ」、と先輩部員。
その数、なんと150枚近く。
それから後、毎日10枚程のレコードを抱え、最終電車
に揺られ帰宅する日々が続いた。

(次回に続く)

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January 25, 2005

新米編集者時代その4

もうひとつ、当時はDTPなんてものはなかったので、
デザイナーからデザイン指定をもらって写植屋さんへ指示をする、
という仕事もあった。
写植とは、文字が印字された印刷用に使われる印画紙のこと。
その印字をするのが写植屋さんの仕事なのだが、
必然的に原稿が遅れればデザイナーの作業が遅れ、ひいては
写植屋さんの仕事がタイトになる、というわけだ。

それゆえ、写植屋のおやじとはよく喧嘩させられた。
させられた、とは自分の意思とは裏腹に、上司の業務命令で、
である。

編集部内も締切り間際になると大忙し。当時、ADLID編集部には
編集長を入れて5人。しかも自分ともうひとり同期入社の新米2人
が足を引っ張るものだから、編集長もキレ気味。
ちょっとした誤植を指摘すると、「高橋!写植屋に文句を言って15分
以内に至急直しをもってこいと言え!」なんてこともしばしば。

ある時、直しの文字が間違っていたことから編集長のイライラが
頂点に達し、同期の新米編集者Bに「バカヤロ~って言え!」とすごんだ。
彼はしばらくの間小さな抵抗を見せたが、突然、編集長の受話器が
彼の目の前まで飛んできて「早く電話しろ!」とおたけび。
観念した彼は写植屋に電話をかけ、意を決して叫んだ。
「ばかやろ~、早く直しを持ってきやがれ!!!」

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その後の結末は悲惨だった。
写植屋の社長が顔を紅潮させ勢い勇んで編集部にやってきた。
「誰だ!ばかやろーってほざいた奴は」
新米編集者Bはそのばで土下座。「すみません・・・」
彼を除く編集部員は当たらず触らずで黙々と仕事をしている、ふり。
「嗚呼、明日は我が身」と思いつつ、手に持つ赤ペンが震えていた。

※その後聞いた話だが、実はどうも編集長と写植屋の社長との間で
事前に口裏を合わせていたようで、これも新米編集者の肝試し
だったことが判明した。

(次回に続く)

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新米編集者時代その3

いまでこそ原稿もメールでやりとりすれば済むが、
当時は原稿もせいぜいワープロ。しかも通信の発達していない
当時は、音楽評論家の自宅まで原稿(FD)を取りに伺うというのが
当たり前だった。またそれが新米編集者の仕事のひとつでもあった。

新譜レビューのページを担当していた自分は、毎月20名近くの
音楽評論家や音楽ライターへ締切り近くになるとお伺いの電話を
かけ、原稿が出来た人から回収に出向くというルーティンワークが
あった。

当時、作詞家の湯川れい子さんやDJ糸居五郎氏(故人)など、
ちょっとした有名人もいて、そんな有名人の自宅に行けるのが
特権的気分で、新米にはそれなりにルンルンだった。

なかでも糸居五郎氏はとてもフランクな方で、部屋まで招いて
コーヒーを入れていただいたこともあった。でも、お風呂上りで
バスタオルを巻いて出てきた時にはちょっとびっくりした。
湯川れい子さんとは一度もお目にかかったことがない。
いつもアシスタントか秘書と思われる人から玄関先で原稿を
受け取るからだ。

また、ライターさんの中には締切りを守らない人も少なくなく、
なかには冷蔵庫の中に電話機を入れて出ないようにしている、
なんてツワモノ(?)もいた(冷蔵庫は業界関係者の噂)。

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ともあれ、こうして音楽業界のいろんな方たちと直接接する
機会が始まってから、ようやく自分の仕事(奢った言い方を
すればギョーカイ人)が楽しくなってきた。

(次回に続く)

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January 23, 2005

新米編集者時代その2

ちなみに私が配属されたのは「ADLIB」という雑誌。
歴史ある本誌「スイングジャーナル」とは違い、
「日本初のクロスオーバーマガジン」(クロス
オーバーとは今で言うフュージョンミュージック)
という謳い文句で誕生した新しい媒体だ。

大学時代は軽音楽部に所属し、高中正義(g)に傾倒していた自分。
(担当はベースだが)
この上なく好きなジャンルに特化した雑誌の編集に携われることに
なり、それは毎日が夢のようだった。(便所掃除を除いては)

なかでもカシオペアのデビューは衝撃的だった。
野呂一生(g)とは同い年でしかも誕生月も同じ。
運命の出会いを感じた。
また現在、カシオペアのメンバーである鳴瀬善博(b)。
Char(g)、金子マリ(vo)がいた伝説のバンド、スモーキーメディスン
のメンバーであり、実は学生時代からリスペクトしていたベーシスト。

そんな彼が初のソロアルバムをレコーディングするという。
嬉々として自ら手を挙げ取材を希望したワタシ。
しかし編集長が自分に課したミッションは、彼の上半身裸の写真を
撮影してくること。ワイルドでファンキーなベーシストのイメージを
「レコーディングレポート」のページで紹介するというのが狙いだった。

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夜9時。六本木の某スタジオに行った自分は、早速レコード会社の人
に趣旨を伝え、マネージャーを通して交渉してもらうことになった。

しかし・・・
本人はかたくなにNG。(そりゃそうだろう)

それでもネバること5時間。やった~!
ついにナルチョ(鳴瀬氏のニックネーム)が折れてOKを出してくれた。
撮影の時は意外とノリノリで対応してくれたナルチョさん。
(本当はすごく嫌だったはず。こちらもまさかリスペクトしている
ミュージシャンにそんな恥ずかしい格好をさせるなんて・・・でもしかし
それが新米編集者に課されたミッションなのだから仕方がない)

無事、撮影が終了したのは深夜3時。
神谷町にある会社まで歩いて戻り、その日は会社で夜を明かした
ことは言うまでもない。

でもそれ以来、ナルチョさんには懇意にしていただいた。
(当時、野呂君がゲストミュージシャンで参加するなど、ナルチョと
よくコラボしていたが、当時カシオペアには、桜井君という超スゴい
ベーシストがいたし、ナルチョが後にカシオペアのメンバーに
なった時には正直、仰天した)
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それにしてもカシオペア。
当時の彼らのテクニックとサウンドにはど肝を抜かれたものだが、
いまだカシオペアを上回るフュージョンバンドはいないと思っている。
(しかもいまだ現役にして当時と変わらない凄いテクニックで
いま時分のバンド小僧にもリスペクトされている。ホント、スゴイよ)
メンバーの平均年齢もすでに50に近い。(ナルチョはもう超えている)

もちろん自分も同じだけ年月を重ねてきたわけで、
つくづく時の流れを感じる。


(次回に続く)

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November 12, 2004

新米編集者時代その1

私が「編集」の世界に飛び込んでかれこれ24年。
新卒入社したのはジャズの専門誌を発行する出版社。
入社早々の初仕事は、ジャズ界の大御所、渡辺貞夫氏(sax)の
レコーディングレポート。
編集長の命により会社のカメラ(NikonF2)を大事そうにカバンに
詰めてソニー信濃町スタジオへ。
とにかくビビっていた自分を思い出す。

いまでこそ「サダオさん」なんてフレーズが出てくるけど、
当時、新入り編集者だった自分にとっては
「ナメられる」ことを覚悟での取材だった。

ディレクターから促され、初めて入ったスタジオ--。
何もかも新鮮だった。
しかし・・・どんなタイミングでサダオさんに話を聞けばいいのか
すら分からず、じっとミキサーの後ろで待機していた自分。

結局、サダオさんとは一言も話せず、録音ブースから見える
サダオさんの笑顔だけが印象的だったのを覚えている。

とはいえ、何の取材もせずに引き返すわけにもいかない。
ディレクターに「写真を撮ってもいいですか?」と告げ、おもむろに
ミキサーサイドから見えるスタジオ内のサダオさんをパシャリ。

数枚の写真を撮り終えたところで、編集部から連絡が入る。
「いつまで取材してんだ、早く帰ってこい!」

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編集部に戻った自分を鬼の形相で編集長が睨む。
その隣に座っている編集長片腕の辣腕編集者が笑いながら
「コメントはもうもらってあるよ」。
もちろん、自分の写した写真すら使われず、
レコード会社の方から提供されていたのだ。

そう、つまりは肝試しで自分を「お使い」に出したのだった。

かくしてそれ以来、便所掃除の毎日がしばらく続いた。
(次回に続く)

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