求人誌の編集というお仕事

March 31, 2005

求人誌の編集者時代その5(最終回)

「求人誌の編集というお仕事」というカテゴリの
わりには、私的なエピソード、記憶の糸をたどったに
すぎなかったかもしれない。

それでも、丸10年にわたって関わってきたこの仕事が
今の自分を支えていることは間違いない事実なのだ。

バブル崩壊後の日本経済。
ある意味、求人誌はその経済状況を映し出す鏡、
なのかもしれない。

リストラ、雇用不安、年功序列、終身雇用の終焉・・・
有効求人倍率の低下とともに失業率も増え、
定職を持たないフリーターが増加・・・
まさか、と思えるような大企業の相次ぐ倒産によって
大企業神話も崩れた。
バブルの付けはいまだ尾を引いている。

そうした日本経済、雇用環境の厳しさを予知していた
わけではないが、独立してフリーになったのが12年前
の1993年。スタンスとしてはサラリーマンではなく、
ある意味で傍観者的にいる自分を幸せに思うべき
なのだろうか。

否、いくら会社(法人)の代表とはいえ、一寸先は闇。

求人誌の編集に携わり、その財産でビジネス関連、
企業関連、労働関連と仕事をいただいていはいるが、
そろそろ新しい事もやってみたい。
別に会社を大きくしようとはさらさら思っていないが、
少なくとも永続的に会社を続けていくのであれば、
いずれは後継者も育てていかねばならない。
そんな思案をしながら、ひとまずこのコーナーを
最終回とさせていただく。

なんともまとまりのないコーナーになり、ちょっと自己嫌悪。

(完)

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求人誌の編集者時代その4

「x誌創刊」と名づけられたプロジェクトが結成された。
そのメンバーに入った自分は、主に広告ページの
デザイン、掲載規定関係を主に担当することになった。

「デューダ」---。
誰となくつぶやいたこのネーミングがx誌の誌名に決まった時、
あの事件が起きた。

求人誌のガリバー、リクルートがコケたのだ。
社会的な影響もそれは大きく、大手企業も次々と離れた。
そして昭和から平成へと変わったまさに平成元年1月、
「DODA(デューダ)」が産声を上げた。

奇跡的ともいえる起死回生のリニューアル誌「デューダ」は
売れに売れたばかりでなく、その知名度も一気に爆発。
「デューダ=転職」を意味する言葉として、
その年の流行語大賞にも選ばれた。

締め切り日ともなると編集部内は戦争状態。
入稿~下版(印刷入れ)までの3日は毎週徹夜が続き、
首都圏外各地の支社(北海道、中部、大阪、九州)から
は助っ人が大挙してやってきた。

なにしろ広告の申し込みをストップしなければ、
誌面の背幅が印刷の限界を超える、というぐらいだった
のだから、いうなれば毎週タウンページ並みのボリューム。

かつCMもブレーク。
イッセイ尾形と大地康雄がコミカルなからみをしながら
「たんたかたんたんたんたんた~ん、デューダ~、デューダ~」
という「草競馬」をもじった鼻歌が大衆の心をつかみ(?)、
「DODAゲーム」なる、転職をしながら成功者になるという
人生ゲームもどきのボードゲームまで発売された。
(これはあまり売れなかったため、知る人ぞ知るレア物)

この時ばかりは「バブル」を感じたね。

(次回へ続く)


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求人誌の編集者時代その3

媒体が苦戦する状況の中で、会社は神田(須田町)から
浅草橋というなんとも地味な場所に移転。
その時に組織(特に営業)も大きく変わり、
それまでの直営業体制から代理店営業網の拡大
を図ることになった。
その1つに、今、巷で話題になっているフジサンケイグループ
と業務提携、ちょっとした話題を集めたのもこの頃だ。

社内には代理店担当がよく来社するようになり、
私たち編集部のスタッフは主に求人原稿の制作について
レクチャーしたものだ。

いわゆる掲載規定、というのが細かくあって、
当時は「明るい人求む」といった抽象的なコピー表現もNG。
こんな時は「明るい人仲間があなたを待ってます」とか
「個性が活かせる明るい職場」といった表現に変え、
あくまで広告主側での表現ならOKというルールだった。

求人データに関しても、当然、労働基準法に違反しないか
どうかのチェック(当時、女子の深夜労働は禁止だったし、
月収50万円以上を表記する場合はその証明をもらうなど)
も編集部の仕事だった。いわゆる求人原稿の校閲というやつだ。

その他にも、血液型を限定して募集したり、在住地域を限定した
募集、新卒者の募集に関する規定など、とにかく色々あった。

それでもリクルートのチェックよりはゆるいと言われたものだ。
専属代理店を除くフジサンケイグループのような総合代理店は
あらゆる媒体の営業ができるので、ある人から原稿用紙を
見せてもらったが、確かチェック事項だけで確か20~30あった
のを記憶している。

そんな風にして代理店強化の路線を歩み始めた「Qタイ」が、
生まれ変わるべく完全リニューアルを計画していた頃、
あの事件が起こり、一気に会社が息を吹き返すことになる。
まさに昭和も終わろうとしていた、まさに「その時」である。

(次回に続く)

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March 17, 2005

求人誌の編集者時代その2

強力なライバル、それはいうまでもなくリクルート。
当時、リクルートは「就職情報」(現・B-ing)を発刊。
「やり貝」を背負ったとんねるずの2人をCMキャラクターに
宣伝戦略もたくみに、転職市場のニーズを開拓していった。

対して自分が担当していた週刊「求人タイムス」も
「Qタイ」に誌名を変更、当時は今ほど有名ではなかった
明石家さんま(ヤングoh,ohで人気)をキャラクターに
対抗したものだ。

しかしながら、後に起こるリクルート事件(※)で明らかに
なったように、政財界にも強いパイプを持つリクルートは、
当事件が発覚するまで、強力な営業力と大企業を中心と
した強いパイプによって、「Qタイ」は大きく水をあけられる
こととなった。

(※)リクルート事件の概要
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rikuruto.htm

(次回に続く)

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February 01, 2005

求人誌の編集者時代その1

音楽雑誌の編集から足を洗い、転職したのは
アルバイト情報誌の草分けにあたる求人情報会社。

自分が配属されたのは、創刊1年を経たばかりの
転職情報誌。(後に誌名が転職の代名詞となった。
当時は週刊求人タイムスというダサい名前だった)

本家、アルバイト情報誌が売れに売れる状況にあって、
こちらの情報誌はさっぱり。
転職がネガティブな時代でもあり、求人企業もかなり
うさんくさい会社が多かった。
中でも英会話の英語教材を売る教育産業。
当時はレーザーディスクによる教材をハードとセット
で販売する会社が隆盛。
商品先物取引の営業マン募集もこの頃からかなり
出始めた。

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ところで、そこでの自分の仕事は主にそうした会社の
求人広告の制作。当初は編集記事の制作を希望して
いたが、子会社の編プロに委託。「いずれ自社で体制
を作るから・・・」との話でとりあえず入社した。

しかし、これが意外とハマった。オリエン~プレゼン~
自分でコピーを書き、レイアウトを考えて・・・
当時まだDTPなどないので、レイアウトもすべて手書き。
自分の制作した広告が顧客に喜ばれる・・・
それによって広告出稿が決まり、契約が取れたと
お礼を言ってくれる営業マンの顔を見るのも嬉しかった。
そうか!これが「やりがい」なのだろうか。

しかし、そうした求人業界にもやがて強力なライバルが
出現することになる。

(次回へ続く)

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